大久保宏明のヤメ検の事件簿(その2)

先輩検事の人事異動に伴い、公判担当を引き継いだ事件の中に、とんでもないものがあった。
被害者を車で轢いて死亡させたという、傷害致死被告事件であった。

【被告人の供述内容】
残業が終わって、自宅に帰るため、車を走らせていた。
人通りのない一本道の真ん中に、大きな塊のようなものを見た。
スピードを落として近づいたところ、道路上に人が寝ているようであった。
数メートル手前で車を止め、様子を見に行った。
身体の大きな男が、酔っ払って寝ているようだった。
肩をゆすり、「大丈夫ですか。道路の真ん中です。危ないですよ。」と声をかけた。
男は、酔っ払って寝ていたようであるが、目を覚まして、起き上がってきた。
男は、「お前を待っていた。一緒に死のう。」と言いながら、強い力で抱きついてきた。
恐ろしくなって、必死で振り払い、自分の車に戻り、運転席のドアを閉めた。
そのとき、男は、車の運転席(右)側のドアのあたりにしがみつき、何を言っているのか分からなかったが、大声で怒鳴り続けていた。
ただ怖かったので、無我夢中で、男から逃げるために、ハンドルを右に切って急発進し、振り払った。
気がつくと、男は視界から消えていた。
人を轢いたような感覚はなかったが、舗装道路ではなく、石を踏んだ程度の感じはあったかもしれない。
そのまま走って家に帰った。

【被害者の死体を解剖した医師の鑑定結果】
強い力で全身を圧迫されたことにより、内臓が破裂したための失血死。
背中から足にかけて何かに引きずられたような多くの傷が残っている。
全身の傷痕が同一機会に生じたものとは断定できず、数分程度の間隔で複数の機会に生じた可能性もある。
被害者の身長は185センチ、体重は90キロ。

【第一発見者の供述内容】
家の周辺を散歩して帰宅しようとしていたところ、自宅近くの路上に人が倒れていた。
被害者はスーツ姿でうつ伏せに倒れており、着衣に乱れはなかったように思うが、はっきり確認していない。
被害者の身体周辺の道路上に血が流れてたまっていたので、轢き逃げされたと思い、5分くらいで家に戻り、110番通報した。
やはり5分くらいで現場に戻り、警察官が来るのを待った。
その後、近所の人たちが、少しずつ現場を見に集まった。

【その後の目撃者の供述内容】
現場付近に何人か集まっており、轢き逃げだと言っていた。
被害者の着衣は乱れており、背中の肌が見えた。

【被告人の婚約者の供述内容】
その日の夜、彼からの電話で、帰りがけに道路に寝ていた酔っ払いに絡まれたという話は聞いたが、難を避けて逃げたということだった。
なにか事件があったという雰囲気は、その後もまったくなかった。

【警察の捜査報告書】
轢き逃げ事件として、現場を通行した車両を調べた。
被告人の通勤経路であることがわかり、事情を聴いたところ、被害者が車にしがみついてきたので振りきるために右方向へ急発進し、その際、被害者を車に巻き込んだかもしれないと供述し、猫を轢いたような感触はあった旨述べた。
少なくとも、被害者に対する暴行があり、その結果として被害者が死亡したものと考えられるため、傷害致死罪と認め、事件から○日後に令状を得て逮捕した。
被告人所有車両の最低車高は17センチ。鑑定の結果、着衣や人体の一部が付着した痕跡は認められなかった。

<私の検事としての対処>

私が事件を引き継いでから、最も重視したのは、被告人所有車両の再鑑定。
車は、証拠品として、すでに約2年間も警察署で保管されていたが、あらためて綿密に鑑定させた。
しかし、事件の痕跡はなかった。

複数車両による轢き逃げの可能性についても、再捜査を命じたが、同一日時ころに現場を通行した他の車両はなく、被告人以外に不審な者は見当たらなかった。

再鑑定を経て、鑑定人の尋問を請求した。
最低車高17センチであっても人体に乗り上げることは当然に可能であること、初期鑑定結果の創傷部位や傷痕の程度などから同一機会によるものと認めるべきこと、などの法廷証言があった。

<判決>

結論は、無罪。判旨は、以下のとおり。
被告人が被害者を振りきった行為が暴行罪に該当するとしても、正当防衛。
被害者の大きな身体が被告人の車両に巻き込まれた過程が証明されておらず、被害者の死亡との因果関係を認定できる証拠がない。
目撃状況や初期鑑定結果などから、多重的に轢き逃げされた可能性を否定できない。

私は、この無罪判決については、控訴すべきでないと判断し、そのまま確定させた。
被告人の車から何の痕跡も発見できないことが、決定的な理由であった。

<後日談>

被告人は、真犯人だった。
翌年のあるパーティーで、この事件を担当した弁護士と同席した際、事件の話になった。
「事件としては無罪、しかし彼が真犯人」と知らされた。

被告人と婚約者は、同じ車種の車を同時に購入しており、浮気チェックという趣旨で、ときどき車両を入れ替えていた。
事件当夜、被告人は、自分の車ではなく、婚約者の車に乗っていた。
本件直後、二人は車を入れ替え、事件車両は、婚約者が業者に依頼して解体処分した。

被告人は、真面目に勤務する好青年であり、婚約者もOLとして働く清楚な女性だった。
この事件は、むしろ二人が被害者であったと見るべきであろう。
無罪でよかった。